時の図書館 Vol.7

生命とは何か

 生物学者になるずっと前の、少年時代の“原点”と呼べる体験は、蝶の劇的な変化(へんげ)をまのあたりにしたことだった。野外で採集してきたアゲハチョウの小さな真珠のような卵から、黒い糸くずのような幼虫が生まれてくる。幼虫は一心に葉っぱ(アゲハチョウの食草は、ミカンやカラタチ、サンショウなど柑橘系である)を食べて成長する。数回の脱皮を繰り返し、まるまると太っていく。ある日、幼虫は動きをとめる。枝の裏側や壁の窪みのような場所で身体を縮めじっとしている。幼虫は一本の細い糸で身体を斜めに支える。やがて一枚の皮を脱ぐと、サナギに変身する。
 幼虫時代、自然界には敵がいっぱいいる。鳥やカマキリのような捕食者がやってくるし、寄生蜂のような昆虫が飛来することもある。サナギになってその場から動けなくなると、いくらでも敵の餌食になってしまいそうだが、サナギは幼虫よりも安全なのである。それは動きをとめているからだ。捕食者たちは動くものを探している。植物や壁と一体化して、動かないサナギは敵の目に止まることが少ない。
 驚くべきことは、サナギの中で起きている変化だ。いったい何が進行しているのか、子ども心に好奇心をつのらせた私は、何度もサナギの皮を開けて、中を垣間見ようと試みた。サナギの内部からは、黒いドロドロの液体がこぼれだしてきた。サナギの中で、幼虫はいったん完全に溶けてしまっているのだった。もちろん、一旦、皮を開けたサナギのいのちはそこで中断されてしまう。悔恨と痛みの記憶だけが残った。
 しかしもし何も介入を行わなければ、サナギの内部で劇的なプロセスが着実に進行する。ドロドロに解けた幼虫の細胞から、アゲハチョウの美しい羽と胴体、細い脚と触覚が再構成されてくるのだ。2週間ほどすると、サナギの背が二つに裂け、そこからアゲハチョウがこぼれだしてくる。最初はくしゃくしゃに折り畳まれた紙のようだった翅脈に力がみなぎり、すっと伸びた見事な羽になる。蝶はしばしのあいだまるで呼吸を整えるようにサナギにつかまったまま羽をゆっくり開閉させた後、ふいに空中にひらひらと飛び立つ。私は胸を熱くしてそれを見送った。そして思った。なんて生命は繊細にできているのだろうか。どうして幼虫の身体はすべて溶けてしまう必要があるのだろうか。いかにしてそこから蝶ができてくるのか。破壊と創造。そして行き着く最後の問いはいつも同じだった。生命とは何か?

 生命とは何か?――これは何も、少年の素朴な問いだけにとどまらない。あらゆる科学の、あらゆる哲学の、あらゆる文学の、あらゆる芸術の、根源的な問いでもある。人類史が始まって以来、我々は繰り返し、この問いを発し、この問いに答えようとしてきた。
 生命とは輝きであり、美であり、驚きである。限りない価値があるもので、豊かさと多様性の起源でもある。あるいは、英語圏の生徒たちは、理科の時間に、生命とは、ミセス・グレン(MRS. GREN)である、と習うそうだ。ミセス・グレンとは、すなわち、M(Movement=動き)、R(Respiration=呼吸)、S (Sensitivity=感覚)、G(Growth=成長)、R(Reproduction=生殖)、E(Excretion=排泄)、N (Nutriotion=栄養摂取)の頭文字である。
 しかし、生命とは何か? という根源的な問いに対する答えは、生命をあれこれ形容することでもなく、その特性を列挙することでもなく、問いに、根源的に答えるということであるはずだ。
 今回は、問いに対する答えを果敢に追究したある特異な思索者について語ってみたい。

 それは、量子力学の確立に大きな寄与を果たした物理学者、エルヴィン・シュレーディンガーのことである。彼は、“シュレーディンガーの猫”と呼ばれるパラドクスの提案によって名が知られている。鋼鉄の箱の中に猫と放射性元素と毒薬のビンがある。放射性元素は一時間に50%の確率で崩壊する。崩壊が起きると測定器が作動し、毒薬のビンをハンマーが割る。するとガスが発生し、猫は昇天する。
 一方、放射性元素の崩壊は、量子論的なプロセスをとる。量子論の世界では、異なる状態が同時に併存しうる。この実験の場合、一時間のあいだ、元素は、“崩壊した”と“崩壊していない”の重ね合わせ状態にある。すると、猫の状態も、生きている状態と死んでいる状態が重ね合わされることになる。これは現実的にまったく奇妙なことだ。シュレーディンガーは、ミクロな世界で起きる量子論的なプロセスが、マクロな世界に拡大されると現実感覚と合わなくなる例として、――さらには量子論が世界を説明するにはまだ未完成の理論であることを――示そうとしたのである。
 シュレーディンガーには1920年代に発表した波動方程式の理論などの達成に対して、1933年、ノーベル物理学賞が授与された。しかしその頃には彼は理論物理学の現場から姿を消していた。自らがその基礎を築いたはずの量子力学における、不確定性や非連続性という概念に対して、彼はかたくななまでに疑義と不信を抱き、あえてそこから背を向けた。“シュレーディンガーの猫”は、彼自身による量子力学へのアンチテーゼだった。1930年代終わりにはアイルランドのダブリンに隠遁し、学界の主流から完全に外れた。

 しかしダブリンの地で彼は新たな思索を展開していた。彼は考えた。物理学は今後、もっとも複雑で不可思議な現象の解明に向かうべきである。それはとりもなおさず生命の謎である。生命は神秘現象ではない。生命現象は、あますところなく物理と化学の言葉で説明しうるはずである。その成果が、1943年2月、第二次世界大戦のさなか、ダブリンのトリニティ・カレッジの主催で行われた一般向け連続公開講座の講義録として刊行された『生命とは何か?』、“What is Life?”である。
 今、手に取るとごく薄い本で、小著といっていいものだ。邦訳は岩波新書から1951年に『生命とは何か』として刊行され、以降、岩波文庫に収録され、ロングセラーとなっている。
 シュレーディンガーは、この本の中できわめて重要な二つの問いを立てていた。一つ目は、遺伝子の本体はおそらく非周期性結晶ではないか、と予言したことである。二つ目は、いささか奇妙に聞こえる問いかけだった。それは「なぜ原子はそんなに小さいのか?」というものだった。
 第一の問いは、この本の刊行からおよそ10年後、イギリスの若き科学者ワトソンとクリックによって、その予言の正しさが立証された。遺伝子は、DNAという化学物質の二重らせん構造をとっており、それはまさに非周期性の結晶だった。非周期性の部分には遺伝暗号が刻まれていた。
 ワトソンもクリックも、シュレーディンガーのこの本が自分たちの研究の端緒を作ったと後に述べている。だから、『生命とは何か?』は、遺伝子の構造を先駆的に言い当てた本として評価されることになった。皮肉にもこのことが、本書の後半部分の重要性を影の中に沈ませることになってしまった。そこにこそ”生命とは何か?”に対する根源的な考察がなされていたのにもかかわらず。

 シュレーディンガーは次のように書いている。
―――――
 さて、原子はなぜそんなに小さいのでしょうか?
これは確かに一寸ずるい問いです。というのは、今私が問題にしているのは、実は原子の大きさではないからです。今問題になっているのは、実は生物体の大きさ、特に、われわれ自身の身体の大きさなのです。(中略)
 かくして、われわれの問いの本当の目的は、二つの長さ――われわれの身体の大きさと原子の大きさ――の比にあることが見究められたのですから、独立的な存在として原子の方が文句なしに先であることを考えると、先ほどの問いは、本当は次のようになります。われわれの身体は原子にくらべて、なぜ、そんなに大きくなければならないのでしょうか?
―――――
 その上で論が展開される。  生命現象も、すべては物理法則に従うはずである。生命を構成する原子は、絶え間のないランダムな熱運動(ブラウン運動や拡散)から免れることはできない。細胞の内部は常に揺れ動いている。それにもかかわらず、生命は秩序を構築している。その大前提として、“われわれの身体は原子にくらべてずっと大きくなければならない”というのである。
 すべての秩序ある現象は、膨大な数の原子(あるいは原子からなる分子)が、一緒になって行動する場合にはじめて、その「平均」的なふるまいとして現れる。ランダムの中から秩序が立ち上がるというのは、集団の中である一定の傾向を示す原子の平均的な頻度として起こることなのである。それゆえ、原子の「平均」的なふるまいは、関係する原子の数が増せば増すほど増大する。
 生命体が、原子一つに比べてずっと大きい物理学上の理由がここにある。生命現象に参加する粒子が少なければ、平均的なふるまいから外れる粒子の寄与、つまり誤差率が高くなる。粒子の数が増えれば増えるほど、誤差率を急激に低下させうる。生命現象に必要な秩序の精度を上げるためにこそ、「原子はそんなに小さい」、つまり「生物はこんなに大きい」必要があるのだ。実際の生命現象では、百万どころかその何億倍もの原子と分子が参画している。
 しかしこのことはあくまでも問題の前提でしかない。生命は、物理学的な枠組みの中に自らを従わせつつも、単に、その熱運動に身をゆだねているわけではない。そこから複雑な「秩序」を生み出している。その秩序の維持が生命を生命たらしめているのだ。
 シュレーディンガーが慧眼だったのは、ここに「エントロピー」の概念を導入したことだった。宇宙の大原則として、エントロピー増大の法則がある。エントロピーとは「乱雑さ」のことだ。宇宙のすべてのものは、乱雑さが増大する方向にしか動かない。秩序は無秩序へと推移する。ピラミッドのような壮麗な建築物も徐々に風化し、砂塵に帰す。金ピカの宝飾品も錆びて色あせていく。整理整頓された部屋も乱れていく。熱いコーヒーはぬるくなり、熱烈な恋愛も冷める。そしてそれが“時”の流れる方向である。これがエントロピー増大の法則だ。この法則から免れることのできるものはない。
 ところが生命だけは、このエントロピーの法則から免れているように見える。もちろん完全に打ち勝つことはできない。生命には必ず死があり、それはエントロピー増大則が、秩序を凌駕した状態である。しかし、生命は、通常の無生物が、エントロピー最大の状態になるよりもずっと長い間――人間の場合であれば、何十年ものあいだ――、エントロピー極大の状態にはまり込んでしまうことがない。その間にも、生命は成長し、自己を複製し、怪我や病気から回復し、さらに長く生き続ける。
 これをかつて、フランスの哲学者、ベルグソンはこんな風に呼んだ。

――生命は、物質の下る坂を登り返す努力をしている。

 時の経過とともに、物質が必ず下らざるを得ない坂、それがエントロピー増大の法則である。生命とは何か? そう問われたとき、シュレーディンガーは、ベルグソンの言葉をもうすこし理知的に言い換えて、こう答えることになった。

――生命とはエントロピー増大の法則に抗することのできる存在である。

 では、いったい、如何にして生命はエントロピー増大の法則に抵抗しうるのか。さすがのシュレーディンガーも、このことに明確に答えることはできなかった。ただ、それは超自然的なものでは決してなく、あくまで物理学で説明できるものだという確信を持っていた。そこには、われわれがまだ知らない新しい「仕掛け」であるだけなのだろうと推測した。

 現在、私たちは、これを「動的平衡」という概念を使って説明することができる。アゲハチョウの幼虫がサナギになるとき、いったんすべてが破壊されてしまったのはなぜかを思い出せばよいのだ。生命においては、新しい創造に先行して、常に破壊が行われている。破壊と創造は、分解と合成と言い換えても良い。細胞は常に壊され、新しい細胞が生み出される。細胞の内部でも同じだ。タンパク質はものすごい速度で分解され、一方で絶えず新しいタンパク質が合成されている。破壊と創造のバランス、分解と合成の均衡の上に生命は成り立っている。これが動的平衡である。
 そして、重要なことは、細胞やタンパク質が壊されるのは、古くなったから、使えなくなったから、壊され、捨てられているのではない、ということだ。まだまだ使えるのに、あるいは、出来たてほやほやであっても、情け容赦なく、どんどん破壊され、分解されている。なぜだろうか。エントロピー増大の法則に先回りして、それを追い越すためである。エントロピー増大の法則が、細胞やタンパク質の秩序を無秩序に変える前に、率先して、積極的に、あえて壊しているのである。このことによって、常にエントロピーを外に汲み出しているのだ。破壊が創造に先行すること、創造的破壊ではなく、破壊的創造が優先されることが動的平衡の本質であり、生命が、エントロピー増大の坂を登り返すための「努力」なのである。
 この意味でも、生命の特性をエントロピーの観点から説明しようとしたシュレーディンガーの着想はとてつもなく素晴らしいのであり、彼の『生命とは何か?』は歴史的名著だと言える。私の動的平衡論はひとえに、シュレーディンガーという巨人の肩に乗ったほんの小さな展開にすぎない。
 もうひとつ重要なことがある。私の腕時計が正確に刻む秒針の動きは、あくまで物理的な時間の蓄積である。つまりエントロピー増大の法則の矢が進む方向と速度を記録するものである。一方、生命が行っていることは、この矢をある瞬間、ほんの少しだけ追い抜いて、破壊と分解を先回りしているということである。そしてエントロピーの矢を追い越したとき、ほんの一瞬だけ生み出される余裕を使って、創造と合成を行っているということである。このわずかな余裕こそが、生命にとっての”時間”ということであり、生命が、時の経過を知覚できるのは、このようにして汲み出されたものを、生きている実感として感じているからではないかと考えている。時間とは何か。時間は実在するのか。ここに生命とエントロピーの問題が密接に関わっていると確信している。この深遠なる問題については、また別の機会に論じたいと思う。

生命とは何か―物理的に見た生細胞―
生命とは何か―物理的に見た生細胞―

(著者) エルヴィン・シュレーディンガー著/岡小天・鎮目恭夫訳
(出版社)岩波文庫
(価格)720円+税

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