時の図書館 Vol.8

せいめいのれきし

illustration: Tomoyuki Yanagi

 作家・エッセイストの阿川佐和子さんとは、対談でお話したり、共著の本を作ったりして、親しくさせていただいているのだが、子どもの頃の思い出としてこんな話を聞いたことがある。
 阿佐ヶ谷に住んでいた阿川さんは、兄妹で「かつら文庫」に通っていた。「かつら文庫」とは、児童文学者の石井桃子さんによる私設図書館だった。自宅の一室と書棚を近所の子どもたちに開放し、自由に本を選んで読んだり、遊んだりできるようになっていた。石井さんによるお話会のような催しもあった。
 あるとき「かつら文庫」に行ってみると、見知らぬ外国人女性がいた。石井桃子さんがみんなに彼女を紹介した。「こちらは、みなさんがよく知っている絵本『小さなお家』や『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』を書いたバージニア・リー・バートンさんです。アメリカからみなさんに会いに来てくださったのです。」
 バートンは挨拶したあと、黒板に貼った画用紙にその場で絵を描き始めた。いったい何を描いてくれるのか、佐和子少女はわくわくして待った。すると、バートンのクレヨンの先は、画用紙の一点からすーっと伸びて、長い長い曲線を描き出した。あれれっ!? それは、小さなおうちでも、機関車ちゅうちゅうでもなかった。曲線の先には小さな頭部が描かれ、もどった線は長い首になり、そして大きな胴体と四本の太い脚、そしてまた長い長い尻尾が現れた。巨大な恐竜だった。
 そう。当時、バートンは綿密な調査と研究を経て、大作を完成したばかりだった。『せいめいのれきし』(原題は、“LIFE STORY”)である。生命の物語と歴史を、壮大なドラマとして描き出した彼女の最後の、そして最大の傑作である。邦訳は石井桃子の手によってなされ岩波書店から刊行された。黄色の四角い大判絵本を知っている方も多いはずだ。

 阿川さんからこの話を聞いて心底羨ましいと思った。なんてぜいたくな子ども時代なんだろう。そんな歴史的瞬間に実際に立ち会えるなんて。私はといえば、当時、練馬に住んでいて『せいめいのれきし』を擦り切れるくらい何度も読んでいた。が、著者のことも、訳者のことも何も知らないでいた。やはり阿佐ヶ谷文化圏と練馬とは決定的に違うのだ。当時、私の住んでいた練馬と言えば、大根とネリカンしかなかった(ネリカンとは、練馬少年鑑別所のこと)。いたずらをすると大人から「ネリカン送りになるぞ」と脅された。もちろん私たちを隔てていたのは、地域差だけではない。言うまでもなく、阿川佐和子さんは、文豪・阿川弘之の娘さんである。
 一応、時系列を整理しておくと、米国での原著“LIFE STORY”の発刊が、1962年。邦訳『せいめいのれきし』の刊行は1964年12月。バートンが来日し、佐和子さんたちが集っていたかつら文庫に訪れたのはおそらくこの年の春のことだったようだ。私がこの本の存在を知り、すっかり夢中になったのはさらに少し後になってからのことである。阿川さんからかつら文庫の思い出を聞いたのは大人になってからだ。
 これまたずっと後に知った余談だが、石井桃子さんのお手伝いをしていた松岡享子さんとお話する機会があり、バートンが来日したとき、日本旅行のアテンド役を勤めたのが松岡さんだった。バートンは見るもの聞くものすべてに興味を示し、“リョカン”に泊まって感激し、駅前のパチンコ屋に好奇心をつのらせたそうだ。

 これはギフチョウで、これはヒメギフチョウ、ヒメギフチョウの方が斑紋が縦に揃っている、というふうに、昆虫の名前や違いをすぐに言えたり、トリケラトプスとかアロサウルスなど恐竜の名前をくまなく知っていたりする子どもはよくいるが(かつての私です)、それは単に知識を溜め込んでいるだけの、いわばモノ知りハカセでしかない。賢いわけでも、教養があるわけでもない。近年は、ネットと検索エンジンのおかげで、モノ知りハカセであることの価値はほとんどなくなってしまった(クイズ王みたいなものはあるけれど)。
 さて、モノ知りハカセと教養人の違いはどこにあるのか。
 モノ知りハカセと教養人の決定的な差は、時間軸を持っているかどうか、ということにあると思う。科学のことを知っているだけでなく、科学史を知っている。数学が得意なだけでなく、数学史を知っている。文学を読んでいるだけでなく、文学史を知っている。信仰を持っているだけでなく、宗教史を知っている。
 時間軸を持っていると、私たちヒトがいかにしてこの地球上にこれだけの文化と文明を築くまでになったのか、人類がどんな苦労をして、いかなる失敗を繰り返して進んできたのか、いや、そもそもヒトが出現する前にどれほど膨大な地球史的時間と生命史の物語が織りなされてきたのか。
 そのすべてのプロセスを、自分の内部の幹として立ち上げることができる。すると個々の知識は、その幹に連なる枝葉のようにおのずと配置され、その脈絡が見えるようになる。たとえ個々の固有名詞を忘れたとしても、すぐに幹と枝からたどって行くことができる。
 ネットの中に情報は溢れているけれど、情報をつなぐべき時間軸、つまり幹がすっかり見えにくくなってしまっている。時間軸はどこにあるのか。それはやはり本の中にこそある。単なるモノ知り少年だったわたしに、時間軸の存在をはじめて明確に教えてくれたのが、この本『せいめいのれきし』だった。

『せいめいのれきし』では、生命の物語が、文字通り“劇場仕立て”で描きだされる。場所は臙脂色の大弾幕がかかった古風な劇場。物語全体は、プロローグと五幕、そしてエピローグで構成される。各幕には数場のシーンがある。
 プロローグでは、生命が誕生する前の太陽系創生の物語が語られる。灼熱の太陽が生まれ、その周りを回る地球ができた。熔岩で覆われた地球の表面はゆっくり冷えていった。舞台袖にはナレーターがいる。最初は、天文学者、ついで地質学者が担当する。地球の大地は激しく揺れ動き、たくさんの雨が降り、水で覆われるようになる。そんなあるとき、最初の生物が出現したと考えられる。しかしその証拠はない……。
 舞台は、明るい日の出とともに、一幕、古生代が始まる。あちこちに生命体が現れ始めた。バートンはこれらについて、科学的正確さを期して、「これは、五億年もまえの、ふるい水成岩のなかに発見された、さまざまな化石についてのおはなしです」として、三葉虫、腕足類、ウミユリなどを紹介する。場は、カンブリア紀から、オルドビス紀、シルリア紀、デボン紀……と展開していく。生物は少しずつ複雑化し、世界はりんぼくなどの巨大植物に覆われていく。水棲生物は陸上にも進出していく。ナレーターはいつの間にか、古生物学者にバトンタッチしている。
 そして二幕、中生代。ここは、福岡少年にとってもっともハイライトが続く場面だった。巨大な恐竜たちが登場するからである。ジュラ紀に現れた首の長いブロントサウルスや背中に鎧版を背負ったステゴサウルスたちが湿原を我が物顔に闊歩している。
「かつら文庫」で、バートンが描いてみせたのはまさにこのシーンだった。さらに劇的なシーンが続く。白亜紀である。ティラノサウルスを始めとする獰猛な肉食恐竜がたちが出現し、空にはプテラノドンが隊列をなして滑空する。恐竜最盛期である。
 舞台は突然転調し、三幕、新生代となる。なぜかあれほど隆盛を誇っていた恐竜たちは姿を消し、かわりに小型の動物や鳥や水棲生物が現れた。哺乳類の時代が来たのだ。哺乳動物たちは大型化して、馬や牛の先祖になり、また長い毛で覆われたマンモスが登場した。気象は激しく変動し、火山が爆発するかと思えば、氷河期がやってきたりした。
 舞台は四幕、現世となる。私たちの祖先となるヒト、ホモ・サピエンスはようやくここになって現れる。洞窟に絵を描いたり、道具を作り、火を起こして、暖を取るようになった。40数億年の地球史に比べ、人類の歴史はほんの十数万年である。ここからのバートンに筆致がすばらしい。アメリカの初期の移民たち、開墾や農作が進む頃、一角の土地に新しい家族が入植した。黄色い窓枠の小さなかわいい家を建て、周りの農地を整備しはじめた。
 これは、ボストン郊外のバートン自身の住まいがモデルになっているとされる。五幕は、この場所に、夏、秋、冬、春がめぐってくる様子が各場として美しく描かれる。農作業をしたり、雪かきをする二人はバートン夫妻だろうか。
 バートンの絵がすばらしいのは、それが単なる科学絵本にのみとどまっているのではなく、とてもデザイン性に満ちあふれていることである。絵の奥行き感や、青海波のように折り重なる雲の様子、そこを飛び交う鳥たちの列などは、みんなグラフィック性を存分に発揮して描かれる。これを見るものに強い時間軸の印象を与えてくれるのだ。
 バートンは、本書を書き上げるまでに、8年にも及ぶリサーチを行い、ニューヨークのアメリカ自然史博物館に通いつめ、さまざまな史料、データ、化石標本資料など、正確な科学的事実を積み上げてこの一大生命絵巻を完成した。後の扉に描かれている博物館は、そのアメリカ自然史博物館の断面図である。

『せいめいのれきし』がすばらしいのは、その中を抜き抜けていく時間軸が、宇宙の創成から始まり、地球の形成、そして生命の誕生・進化を劇的にたどりながら、最後は現在の私たちの暮らしに至ること、つまり私自身の今の時間軸に接続しているということだ。
 物語の最後のページには、時間の流れを表すらせん状のリボンとともに次のようなメッセージが書かれている。
     
さあ、このあとは、あなたのおはなしです。主人公は、あなたです。ぶたいのよういは、できました。時は、いま。場所は、あなたのいるところ。いますぎていく一秒一秒が、はてしない時のくさりの、あたらしいわです。いきものの演じる劇は、たえることなくつづき  、いつもあたらしく、いつもうつりかわって、わたしたちをおどろかせます。
(バージニア・リー・バートン著、いししももこ訳)
     
 どうだろう。読んでみて気づかれただろうか。バートンの最後の言葉、それは「おどろき」である。絶えることなく続き、常に更新され、かつ変動していることへの驚き。これは、生命が動的平衡であることへの率直なオマージュである。そして、驚きとは、生命に対する“センス・オブ・ワンダー”に他ならない。
“センス・オブ・ワンダー”と言えば、この「時の図書館」で最初に取り上げた海洋生物学者レイチェル・カーソンを思い出さずにはいられない。知ることよりも先に感じることがある。それは驚く感性として、誰の心にも予め備わっているものである。その感性を忘れないでほしい。カーソンの遺言である。
 考えてみると、レイチェル・カーソン(1907-1964)とバージニア・リー・バートン(1909-1968)は、ほぼぴたりと同時代の人なのである。同じ米国東海岸ニューイングランドに暮らした。ひょっとすると二人の間には何らかの交流もあったかもしれない。
 生命の精妙さ、自然の美しさに対する二人の女性ナチュラリストの感性は、期せずして最後は同じ思いに行き着ついたのだ。生命に対する畏敬の念。
 こんなに壮麗で深淵な時間軸の物語を私は他に知らない。最も好きな本であり、今でも、しばしば開いてみることがある。
     *
 最後にちょっとした付言を記しておきたい。
『せいめいのれきし』が書かれてからおよそ60年。ロングセラーとなって現在にいたる。
 そのすばらしさは少しも古びることはないが、古生物学の進展によって、多少の改訂を要する部分が出てきた。恐竜の名称や、分類上の記述、その他、生態上の説明などである。また本書では触れていないが、一時期、大発展した恐竜の時代がなぜ急に終わったのか、ということについてもいくつも有力な仮説が現れてきた(そのひとつは地球への小惑星衝突による環境変動である)。
 国立科学博物館の恐竜学者、真鍋真さんは版元の岩波書店からの要請を受け、新しい科学的知見を踏まえ、この本の新版改訂作業を行った。だから著者バートン、訳者いしいももこと並んで「まなべまこと」の名前が、この歴史的名著のカバーに刻まれている(監修者として)。真鍋さんとは親しくしているのだが、こんな風に生きた証をたてることができてうらやましいなあ、と感じる。阿川さんに感じたうらやましさと同根の羨望である。
 というもの、我々の専門的な科学論文は、数年もすればあっというまに古びて、誰も読まなくなるが、『せいめいのれきし』は末永く、世代を超えて、ずっと読み続けられるだろう本だからである。わたしも、ちまちました分子生物学ではなくて、恐竜学者になればよかった……。

せいめいのれきし 改訂版
せいめいのれきし 改訂版

(著者)バージニア・リー・バートン 文・絵/いしいももこ 訳/まなべまこと 監修
(出版社)岩波書店
(価格)1700円+税

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