時の図書館 Vol.3

方舟さくら丸

 不思議な虫がいる。その名は“時計虫”。別の名を“ユープケッチャ”という。
 1984年秋のある日、京都の大学院で研究生活を送っていた私は、街の本屋さんに一目散に駆け込んだ。当時、夢中になって読んでいた小説家・安部公房の久々の書き下ろし長編作品が刊行されたからだった。全編がワープロで書かれた初めての小説、という触れ込みだった。

 その新作が『方舟さくら丸』だった。仰々しく平台に積まれていた一冊を手に入れると、下宿に戻る時間さえ惜しかった。ページをめくるとスリリングな展開にたちまち引き込まれた。

 時計虫は、その最初に登場する。主人公の〈ぼく〉はひきこもりの元カメラマン。自分を「もぐら」と称している。しかし壮大な計画をもっていた。地下採石場跡の巨大な洞窟に、来たるべき核戦争にそなえて、閉鎖空間で自己完結する王国、つまり現代の「方舟」と呼ぶべき秘密シェルターを建造していた。

 街に資材を買い出しに行った〈ぼく〉は、駅前デパートの屋上の宝物展示即売会で、昆虫の屋台を覗く。そこに時計虫ことユープケッチャがいた。エピチャム島にしか生息しない稀少な昆虫。一匹2万円。安部公房はこんな風に描写している。

 ユープケッチャは棲息地のエピチャム語で昆虫の名前であると同時に時計のことも意味しているのだそうだ。体長一センチ五ミリ、鞘翅目(しょうしもく)に属し、ずんぐりした黒い体に茶褐色の縦縞が走っている。ほかに特徴らしいものはと言えば、肢(あし)が一本もないことくらいだろうか。肢が退化してしまったのは、自分の糞を餌にしているので、移動の必要がないためらしい。消化吸収してしまった残りかすの排泄物が主食では、燃えかすの灰にもう一度火をつけるような心もとなさを感じるが、そこは上手くしたもので食べる速度がひどく遅い。その間に繁殖したバクテリアが養分の再生産をしてくれる。ユープケッチャは船底型にふくらんだ腹を支点に、長くて丈夫な触覚をつかって体を左に回転させながら食べ、食べながら脱糞しつづける。糞はつねにきれいな半円をえがいている。夜明けとともに食べはじめ、日没とともに食べおわり、睡(ねむ)りにつく。頭をつねに太陽の方角に向けているので、時計としても役に立つ。
安部公房著『方舟さくら丸』より

 ところで、私の黒のカンパノラはクオーツ時計である。12を指した秒針は正確に一周60秒を刻んで、また同じ12に戻る。その円周運動が無限に繰り返される。まるで、〈ぼく〉が夢見た、時計虫の完璧な閉鎖生態系のようだ。クオーツ時計の心臓部はクオーツ=水晶でできている。水晶は別名、石英。規則正しくケイ素と酸素が立体的にならんでできた結晶だ。水晶に電圧をかけると結晶内部のケイ素原子と酸素原子が規則正しい収縮運動を起こし、これが振動を発する。振動の数は一秒間に2の15乗回。水晶が持つこのような性質を圧電効果といい、クオーツ時計が正確な時を刻む原理となる。水晶の振動は機械に伝わり、秒針、分針、時針の運動に変換される。

 こうして時計はいつも静かに時を刻んでくれる。けれど時計は、完璧な閉鎖生態系でもなければ、永久機関でもない。水晶に振動を発生させるためには電圧がいる。それゆえクオーツ時計には外部からエネルギーを供給しなければならない。電池を入れ、それを定期的に交換しなければならない。ソーラー時計の場合は、電池の交換は必要ないが、この場合も外部から光エネルギーをソーラーパネルに供給しなければならない。つまり、時計は自己完結した閉鎖システムではなく、外部環境とのあいだに回路があり、エネルギーのやりとりがある開放生態系なのである。これは古典的な機械式時計でも同じである。絶えずネジを巻くことによって、外部からエネルギーをゼンマイに与え続けなければならない。

 実は、完璧な閉鎖生態系に見えたユープケッチャもまた実は完璧な閉鎖生態系ではなかった。ユープケッチャの排泄物の上に繁殖したバクテリアが養分を再生産してくれるはずだが、バクテリアも生命体である以上、ユープケッチャの排泄物を有機物に変えつつ、自らの生命活動維持のためにその有機物を燃やしてエネルギーを生産する必要がある。その結果、燃えカスとしての二酸化炭素ができる。放っておけば二酸化炭素は系外に拡散していってしまう。それゆえ系内のサイクルを維持するためには、二酸化炭素を再利用しなければならない。そのためには光合成能力を持った植物性のバクテリアの共存が必要となる。植物性のバクテリアは二酸化炭素を有機物に還元することができるが、そのとき外部から光エネルギーを必要とする。つまりここにもどうしても外部環境との回路が必要となるのだ。完璧な閉鎖生態系は幻想にすぎない。作家も、もちろんこのことをよく自覚していた。

〈ぼく〉は、注意深く、方舟に乗るべき資格をもつ人間を選抜した。ユープケッチャを屋台で売っていた昆虫屋、サラ金の取立てが仕事だった「サクラ」、「サクラ」のガールフレンド、結婚詐欺経歴のある女。三人はシェルターの中で奇妙な共同生活を始める。しかし徐々に、計画に狂いが生じはじめる。外部から不意の侵入者が現れるのだ。スイート・ポテトを販売する「千石屋」、高齢者の清掃ボランティア団体「ほうき隊」、不良少年グループ「ルート猪鍋」、両方の組織の長である「モグラ」の父親。〈ぼく〉の計画にあった秩序は乱れ、おまけに便器に片足を吸い込まれ、身動きが取れなくなってしまう。完全だったはずの「方舟」は崩壊していく。

 自己完結した閉鎖生態系はありえない。安部公房の小説のテーマもここにあった。私たち人間は、ともすれば自分たちだけの、均質な、守られた場所にいつまでも安住する夢を見がちだ。しかしそれはすべて幻影なのだ。方舟は、いかに世界に向かって開かれるべきか、それを安部公房は常に考えていた。これを思うと、安部公房の小説のすぐれて予言的な意味が再認識される。

 私たちは都市を作り、文明を構築し、その快適な暮らしの中で、規則正しく、効率よく、計画と予定にしたがって、成果を上げ、どこまでも自らの意志で生きているように思い込んできた。そればかりではない。すべての情報と脳内のニューロンネットワークをAIに写し取ることができれば、不老不死どころか永遠の生命が得られるとさえ考えるようになった。方舟は、完全に管理され、十全に守られ、あらゆる意味で安全な場所のはずだった。

 しかし、その方舟がいかに脆いかを今、私たちは目の当たりにしている。不意の一撃を受けると、まるで滝壺に吸い込まれた一枚の木の葉のように、流れるままに翻弄され、あげくに岩の隙間に押さえつけられて身動きがつかなくなってしまっている。

 それはある意味で自明のことだったはずなのだ。私たち自身を方舟に閉じ込め、安全な閉鎖生態系の中で自己充足的に生き続けることは、不可能な永久機関を夢想することと同じだからである。生命体としての私たち、あるいはユープケッチャは、その実、たえず外部との回路を通じて、物質、エネルギー、情報のたえまない交換と流れの中でしか、生きていくことができない。

 生命に関するあらゆることは、決してアンダーコントロールに置くことはできず、動的な流れの中でただ一回だけ起きることである。

 カンパノラの滑らかな秒針の動きを見つめながら思う。ここに閉じ込められているように見える時間は、実は閉じ込められているのではない。外部から到来する流れによって発生する震えが、また別の形に姿を変えて、またここから流れ出しているのだ。ここ数ヶ月、ときならぬウイルスの襲撃によって封じ込められていた私たちも、そろそろ新しい自由を求めて動き出さねばならない。

方舟さくら丸
方舟さくら丸

(著者)安部公房
(出版社)新潮文庫
(価格)710円+税

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