Column
時の図書館
Vol.09
ドリトル先生の時間論―『ドリトル先生航海記』と『ドリトル先生月から帰る』を読んで
スタビンズくんは、ドリトル先生と出会ったとき、ドリトル先生があまりにも身軽だったので驚いて聞きました(ドリトル先生は長い旅から戻ってきたところでしたが、手荷物は小さな古い鞄ひとつでした)。
「航海に持っていったのはその鞄だけですか?」
するとドリトル先生はこう答えます。
「人の一生は短い。荷物なんかにわずらわされているひまなどない。いや、実際、人生に荷物など必要ないんだよ、スタビンズくん。(後略)」
スタビンズくんはそんなドリトル先生にあこがれて、自分も先生のような博物学者になるため、弟子入りさせてほしいと頼み込む。ドリトル先生は言います。
「(前略)もう一度確かめさせてくれ、スタビンズくん、きみはほんとうに博物学者になりたいんだね?」
「はい」と私(スタビンズくん)は答えました。「もう決めています」
「なるほど、だが、博物学者になってもお金持ちにはなれないよ。いや、実際、ぜんぜんお金にならない。優秀な博物学者の多くは、まるでお金を稼いでいない。むしろお金を使ってしまう。(後略)」
実際、ドリトル先生は、南米沖のクモサル島に出かけて、世にも貴重な美麗昆虫ジャビズリー・カブトムシの採集に成功します。
(ドリトル先生は)子どものようににこにこして立ち上がると、ガラスの蓋越しに手に入れたばかりの宝物を眺めました。(中略)「今日のわたしと入れ替われるなら、世界中の昆虫学者は誰だって、全財産を差しだすはずだよ」
――――
これは、少年の頃からの愛読書『ドリトル先生航海記』から、今でも記憶に残っている一節を抜粋したもの。特に、“人生に荷物など必要ない”というドリトル先生の名文句は、私の座右の銘になっている。
みなさんの中にも、児童文学の古典、ドリトル先生の物語に触れたことのある読者は多いはず。
ドリトル先生は、英国生まれの作家ヒュー・ロフティング(1886-1947)が綴った物語。もともと、第1次世界大戦中、ロフティング自身も従軍し、戦地から自分の子ども宛に書き送った手紙に創作した話がもとになった。その後、知人のすすめで本にまとめ、最初のエピソード『ドリトル先生アフリカゆき』が刊行されたのは1920年のことだった。ドリトル先生の特技は、動物の言葉が話せること。この能力を駆使して、ドリトル先生と楽しい動物たちが、不思議な島を目指して航海に出たり、サーカス団に入ったり、あげくには月に行ったりするなど、奇想天外な冒険をする物語が次々とシリーズ化されて評判となった。
日本では、岩波書店から刊行された井伏鱒二訳版がよく知られている。ドリトル先生は、原著ではDr. Dolittle。do little とは、つまり、ほとんど仕事をしないということ。さしずめ“おさぼり”先生という意味である。実際、ドリトル先生は、いつも燕尾服とシルクハットをまとった英国紳士ながら、小太りで、いささか脱力系のキャラクター。お金や名誉に全く執着がない。貧乏暮らしなのだが、いつもなんとかなる、と楽観的。このDr. Dolittle に、“ドリトル先生”というコミカルな響きの名前を当てたのが、小説家、井伏鱒二の名訳だった。以来、ドリトル先生の物語は、世代を超えて読みつがれる名作物語となっていく。
ドリトル先生は自分のことを「ナチュラリスト」と呼んでいる。井伏鱒二の翻訳では「博物学者」となっているが、つまりすべての生命と自然を愛する人、という意味である。結局、わたしも、ドリトル先生へのあこがれが昂じて、こうして生物学者になったといってもいい。
私が初めてドリトル先生に触れたのは小学校後半の頃だったと思う。内向的な子どもだった私は、遊び友だちがおらず、いつものように放課後、ひとり学校の図書室に行った。本棚のあいだを行きつ戻りつしていると、一冊の小さな本が目に留まった。というよりも、その背表紙が私をそっと呼んでいるような気がした。抜き出してみると、それが『ドリトル先生航海記』だった。
これは今にして思うととても幸運な偶然だった。というのも『航海記』は、『アフリカゆき』に次ぐ、2作目なのだが、ドリトル先生シリーズはこの『航海記』から俄然、面白くなるからだ。
この巻で、初めてスタビンズ少年が、物語の語り手として登場する。弟子としてドリトル先生に入門したスタビンズくんは、先生と波乱万丈の冒険をともにする。彼の目をとおして、物語が、リアルタイムで、生き生きと語られることになる。読者は、そんなスタビンズくんに感情移入してしまうのである。
私も、一行目を読み始めた瞬間から、たちまち吸い込まれてしまった。イギリスの片田舎にある遠い町、パドルビー。私はそのままスタビンズ少年になっていた。
スタビンズくんは、貧しい靴職人の息子で、学校に行かせてもらえなかった。いつも、町の中心を流れる大きな川の岸壁の石垣に腰をかけ、足をぶらぶらさせながら水面を行き来する船を眺めて、遠い国を夢想していた。そんな、ある日、お使い役として靴を、お金持ちの客のところに届けにいって、居丈高な振る舞いを受け、とても悲しい気持ちになる。帰り道、突然、夕立ちが降り出した。雨宿りの場所はない。スタビンズくんは顔を上げずに走りだした。するとうっかり、向こうからやってきた人と鉢合わせしてしまう。柔らかなお腹にぶつかって尻もちをついた。すると相手も尻もちをついている。
「ご、ごめんなさい」
スタビンズくんはとっさに謝ると、相手の人は怒るどころか笑い出した。
「きみも不注意だったが、わたしも不注意だった」
スタビンズくんがはじめてドリトル先生と出会うこのシーンは、何度読んでも心温まる、とても美しい一節である。ドリトル先生の物語のエッセンスがすべてここに凝縮されているといってもいい。
4月の終わりの月曜日の午後、ほんの短い時間のうちに、スタビンズくんは、少年が出会うべくして出会う、人生最良の出会いを見つけた。そしてある意味で、人生にとってもっとも大切なことのありかを、一瞬にして知ったのである。
ドリトル先生の魅力のエッセンスは、人間に対しても動物に対しても極めて公平なことである。スタビンズくんのことも(ファーストネームのトミーや、坊やではなく)、いつも正式な名字のスタビンズくん(Mr. Stubbins)と呼んでくれる。そしてもう一つの魅力は、ドリトル先生とスタビンズくんの関係が、少年にとって理想の大人との出会いであること。子どもにとって、親や先生はいつも何かを命じたり、禁じたりする垂直の関係にあるが、ドリトル先生はスタビンズくんを対等の人間として扱い、かつ心優しき指導者でもある。つまり斜めの関係なのだ。だから読者はみんな、スタビンズくんみたいになりたい、と思ってこの物語に引き込まれてしまうのである。ドリトル先生の物語とは、その好ましさのいちいちを、ドリトル先生の事蹟として、丁寧にスタビンズくんが記録した、いわば福音書のようなものだといえるのではないか。
ドリトル先生シリーズは『ドリトル先生アフリカゆき』から始まって、(以降、“ドリトル先生”を省略)『航海記』『郵便局』『サーカス』『動物園』『キャラバン』『月からの使い』『月へゆく』『月から帰る』『秘密の湖』(上・下)『緑のカナリア』『楽しい家』と全12巻13冊でセットになっている(岩波版)。
わたしはこれを夢中になって読み進めた。ところで、ドリトル先生シリーズを通読したファンの多くに、(わたしを含めて)共通の読後感があるのではないか思う。それは、読み進めていくにつれて、だんだん暗い影が差してくる、ということである。最初の頃の楽しいことばかりのドリトル先生と動物一家の物語から、後半、ドリトル先生自身が、徐々に孤独に、哲学的になって、スタビンズくんさえも遠ざけてしまうような展開になっていくのである。
それは『月へゆく』でにわかに顕著となる。月から狼煙が上がって、巨大な蛾がドリトル先生の家に使いとしてやってくる。それに乗ってドリトル先生は月に行く。今までならスタビンズくんも当然、一緒のはずだが、ドリトル先生はスタビンズくんに黙って旅立つ。これはどうしたことだろう。スタビンズくんは、ドリトル先生の出発に気づいて、蛾のお尻に必死にしがみついてなんとか月旅行について行く。
先生は、月に行き、月の生物たちが非常に長生きをして平和に暮らしているのを見て、「長生き」、さらには「不老不死」に執着するようになる。つまり、ドリトル先生は「老い」に対して恐怖を持ち始めている。自分には時間がない。世界に研究したいことが山ほど残っているにもかかわらず、自分に残された時間は短い。だから、できるだけその時間を伸ばしたいという思いにかられていく。月から帰った後、膨張して疲れた身体をリハビリでもとにもどし、ドリトル先生はなんとか月で見聞した不老長寿の謎を解き明かそうとする。しかし研究は思うようにはかどらない。
『月から帰る』の最後は、夜遅くまでひとり思い悩むドリトル先生を書斎に残したまま、スタビンズくんと、ドリトル先生の家に出入りしているネコ肉屋(ペットの餌を売る業者)のマシュー・マグがそっとその場を立ち去るところで終わっている。
物語の結末にしては、不思議な、ある意味とても謎めいた終わり方をしている。他の物語が、動物たちがドリトル先生を囲んで楽しい雰囲気のうちに終わるのと全然異なっているのだ。
――――
「さよう、それはつまり、」と、先生はいいました。「長生きできるということだ。たぶん、永久に生きられるかもしれん。スタビンズ君、考えてみたまえ、この世のつづく限り生きられるのだよ! ところが、月の世界の生物たちは、そうなのだ。いや、少なくともあるものたちは、永久に生きつづけるに違いない。その生命の謎が解けさえしたら!」
(中略)ふと先生は、新しい考えが浮かんでそれをかきとめようとされたかのか、再び机の方に向きました。
スタビンズくんは、マシュー・マグを見送るために、先生を残して部屋をあとにする。家の外から窓越しに先生の様子が見えた。
私たちふたりは立ち止まって、窓の中をのぞきました。ドリトル先生は、もう一心にペンを走らせていました。
このとき、マシューは意味深長な言葉を口にする。マシューには学歴も教養もなく、いつもべらんめえ口調(の英語)で話すのだが、ストリートワイズというか、地頭の良さ、というか、世界に対する、非常にシンプルな、そして正しい洞察をもたらす人物なのだ。そのマシューがこんな風にいう。
「(前略)永遠の生命か! まるきり先生らしい話じゃないか? どうだね、トミー、先生の研究はうまくいくだろうか?」
つまり先生の研究の行方に批判的なのだ。でも、どこまでも先生に忠実なスタビンズくんにたしなめられる。
――――
ここで物語は唐突におわる。
ドリトル先生が急に思いついた「新しい考え」とは一体なんだろう。先生が、いそいで書き留めようとされたことはなんなのか。
普通に読むと、ドリトル先生はさらに研究に邁進していくかのように読める。でもほんとうは違うのではないか。私はこう解釈する。ドリトル先生は、もし不老不死が実現し、永遠の生命が得られたら、いくらでも好きな研究ができるという考え方の盲点に気がついたのではないか。つまり、時間の有限性の意味を悟ったのではないかと思うのだ。
もし永遠の時間が与えられたら……人間は、一切の努力をしなくなってしまうだろう、ということにドリトル先生は思い至ったのだ。明日死ぬかもしれないからこそ私たちは一生懸命に今日を生きようとする。しかし、今日できることが明日でもできるとすれば。人生に締め切りがなくなってしまったら。私たちは生き急ぐことをしなくなる。いつやってもいいから。
時間の有限性こそが今を生きるこの瞬間を生み出し、人間のすべての活動のモチベーション、生きることの根源になっている。先生は、このあまりにもシンプルな事実に思い至った。そう私は読んだ。
そもそも生命が不老不死になることは原理的に不可能である。宇宙の大原則に「エントロピー増大の法則」があるからだ。エントロピーとは「乱雑さ」ということ。この世界に存在するすべてのものごとは、その乱雑さが増加する方向にしか移動しないという原理。秩序あるものは、すべて無秩序の方向にしか動くことができない。あらゆる形あるものは、形がくずれる方向にしか移ろわない。時間の矢もエントロピーが増大する方向にしか進まない。
生命ほど秩序だったしくみもない。呼吸、脈拍、代謝、細胞分裂、すべて精妙な秩序の上になりたっている。しかし生命はその秩序ゆえに、たえまのないエントロピー増大の危機に襲いかかられている。細胞膜はいつも酸化にさらされ、細胞内の構造物はたえず損傷し、タンパク質は変性し、老廃物はたまり続ける。
生命はこれに対して、あてどのない抵抗を試みる。どのようにして? 自らを率先して破壊することによって。そして絶えず作り直すことによって。生命は、エントロピー増大の法則に”先回り”して、自らを分解しつづけることによって、溜まっていくエントロピーを汲み出そうとしている。これがエントロピー増大の法則に対抗する、たったひとつの道である。その一方で、生命は絶えず新しい秩序を作り直している。つまり生命は、たえまのない分解と合成の平衡の上にある。これが生命の「動的平衡」である。しかし、その抵抗でさえも、最後はエントロピー増大の法則によって押し倒されてしまう。これが寿命というものであり、生命の有限性ということである。
著者ロフティングは、自身の健康問題もあって、『月から帰る』でドリトル先生の物語を終了し、筆をおこうとしていた。この結末には、著者自身の人生に対する諦念、あるいは執筆に対する内省的な衰えを感じる。それゆえ、最後に、ドリトル先生が時間の有限性の意味に気づくことを示唆したかったのではないか。
自然を愛すること、つまりナチュラリストとして生きることと、今を生きることの意味は同じである。出会いは、いつも一回限り、今この瞬間にしか起きない。ナチュラリストは、その移ろいを見極めようとする。そして生命に有限性があることが、自然を輝かせている。ナチュラリストは、時間の有限性の貴重さに気づくからこそ、センス・オブ・ワンダーを感じる。私は、ドリトル先生の物語を深読みしすぎているだろうか。
ドリトル先生航海記
- 著者
- ヒュー・ロフティング著/福岡伸一訳
- 出版社
- 新潮社
- 価格
- 710円+税
ドリトル先生月から帰る
- 著者
- ヒュー・ロフティング著/井伏鱒二訳
- 出版社
- 岩波書店
- 価格
- 岩波書店